◆
高校 ◇
自由読書◇
◇「トカトントン」を
読んで−−
県立上野高2
年・
草山公汰さん
「
某作家」のもとに
送られてきた
一通の
手紙と、それ
に対する彼の
返信によって
構成された
作品。
手紙の
送り主の
青年はことあるごとに「トカトントン」という
幻聴に苛(さいな)まれ、その
度に
無気力になるという
悩みを
抱えている。
私達も、
日々生活の
中で
突如無気力に
襲われることが
多々ある。
例えばスポーツに
熱中している
時や、
勉強に
集中している
時、ふと「こんな
所で
何をしているのだろう。」という
思いがして、
途端に
全(すべ)てがどうでもよくなってしまうことがあるが、これも
似たようなものだと
思う。
そうした
自分で
自分を
俯瞰(ふかん)しているような
感覚に
陥った
時、あんなに
虚しくなるのは
何故か。それは、
人間の
生はそもそも
面白みに
欠けるという
事実があるからだ。あらゆる
面白さ、さらに
言えば
幸福感といったものでさえ、
主観によってしか
決定されない。
主観の
無い、
無思考の
状態でぼんやり
自分をモニタリングしてみると、それは
映像としては
微塵(みじん)も
楽しくないし、
観察対象としての
価値も
無いだろう。
人間が
他の
生物を
見るのと
同じように
自分を
見れば、その
生き様は
取るに
足らないものに
思え、
生きることに
充実感を
得られなくなる。
作品中の
青年が
聞いた「トカトントン」も
自身の
内から
発せられた
生への
疑念であったのだろう。
さて、そんな
彼に対し、「
某作家」は
新約聖書のマタイ
十章、
二十八より
次のような
言葉を
引用して
返信する。「
身を
殺して
霊魂をころし
得ぬ
者どもを懼るな、
身を
霊魂とをゲヘナにて
滅し得る者をおそれよ。」これは
本文を
読む限り、イエスを
畏敬(いけい)せよ、という
意味と
取れる。
神、
特にユダヤ、キリスト
教におけるそれは、
人類を
凡て肯定する
存在であるから、かの
青年を
救済し
得る存在だろう。
同じように、
恋人や
家族といった
存在も、
人々が
求めてやまないものである。
主観を
抜きにして
自己の
生を
肯定してくれる
安心感に
浸りたいが
為に、
愛の
繋(つな)がりや
血の
繋がり、
神からの
無償の
博愛に
甘えてきたのだ。
だが、常に幸福であり続けることが正しいことではない。幸福とは、幸福に必要なものしか見ないこと、言い換えれば、事実の黙殺と取捨によって成立しているものだからである。例えば、高級な食肉一つを取ってもそうだ。先進国の肥えた味覚に基づいて徒(いたずら)に脂質を蓄えさせられた家畜が、ただ屠殺(とさつ)される為に産まれて来ている。そうして生産された食肉の中にも廃棄処分される部分が数多くあり、一方では、エネルギーや蛋白質(たんぱくしつ)の不足に喘(あえ)ぐ人々さえいる。しかしいざ食卓につけば、私達はそんな事実を忘れ、舌を染めるその美味に何度も笑うのである。宗教のもたらす安心でさえ、信仰心という自分の認識が、自分に幸福をもたらすという奇妙な構造の上に成立している。幸福は、都合の良い事実以外を排除して初めて見える虚像でしかない。だからといって、不幸となれば真実が見えるという訳ではない。不幸や絶望は、価値観の閉塞によって起こる錯覚に過ぎず、幸福と同じ思い込みでしかないのである。
作品中では悪として描かれる「トカトントン」であるが、実は一度、青年を終戦による絶望から立ち直らせる場面がある。何かに熱中したり感動したりすることを正の精神活動とするならば、絶望は負の精神活動である。ならば、「トカトントン」は幸福や不幸といった価値の錯誤を取り払い、生きることの価値がゼロであると認識させるものだと言える。そして、初めに述べた「自分を俯瞰する感覚」にも、同じ様な性質があると私は思うのだ。
私達が日常の中で手に入れる情報を正しく受け取る為には、見聞きすることに対して何の感情も持ってはならない。喜びや悲しみは人それぞれの幸福や不幸の観点によって裏付けられているからだ。ただ、自分の意志で自分の感情を制御するのは難しい。だから、「トカトントン」のように、自分ではない何かの視点から、自分を俯瞰すればよい。いかなる哀観も感じずに見る世界は、どんな事実も殺されることなく、あるがままの形で目に映るのではないだろうか。
連日テレビで報道される自殺や企業の不祥事といったニュースを見ていると、身勝手な人が多いと感じる。先ほど挙げたトピックを例にとっても、前者は絶望に、後者は利潤という幸福に基づいて罪を犯してしまっている。感情が先行し、自分を顧みることができなかったのだろう。そんな時、あの「自分を俯瞰する感覚」があれば、客観的に自分を見つめ直せたかも知れない。普通、あの感覚はやる気を削(そ)ぐ呪詛(じゅそ)のように感じてしまうが、真の客観性を以(もっ)て世界を眺める手段として、もっと大切にすべきものだと思う。(「ヴィヨンの妻『トカトントン』」=太宰治・著 新潮社)
〔伊賀版〕
2月2日朝刊