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*だいごさんかいせいしょうねんどくしょかんそうぶんぜんこくこんくーる:けんさいゆうしゅうさくひん /みえ(まいにちしんぶん)*

第53回青少年読書感想文全国コンクール:県最優秀作品 /三重(毎日新聞

2日(土)15時2分



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 ◆高校こうこう
 ◇自由じゆう読書どくしょ
 ◇「トカトントン」を読んよんで−−県立けんりつ上野こうずけこう2ねん草山くさやまいさお汰さん
 「ぼう作家さっか」のもとに送らおくられてきたいちつう手紙てがみと、それに対するにたいするかれ返信へんしんによって構成こうせいされた作品さくひん手紙てがみ送り主おくりぬし青年せいねんはことあるごとに「トカトントン」という幻聴げんちょうに苛(さいな)まれ、そのたび無気力むきりょくになるという悩みなやみ抱えかかえている。
 わたくしたちも、日々ひび生活せいかつじゅう突如とつじょ無気力むきりょく襲わおそわれることが多々たたある。例えばたとえばスポーツに熱中ねっちゅうしているときや、勉強べんきょう集中しゅうちゅうしているとき、ふと「こんなところなんをしているのだろう。」という思いおもいがして、途端とたんぜん(すべ)てがどうでもよくなってしまうことがあるが、これもたようなものだと思うおもう
 そうした自分じぶん自分じぶん俯瞰ふかん(ふかん)しているような感覚かんかく陥っおちいっとき、あんなに虚しくむなしくなるのは何故なぜか。それは、人間にんげんなまはそもそも面白みおもしろみ欠けるかけるという事実じじつがあるからだ。あらゆる面白おもしろさ、さらに言えいえ幸福こうふくかんといったものでさえ、主観しゅかんによってしか決定けっていされない。主観しゅかん無いない思考しこう状態じょうたいでぼんやり自分じぶんをモニタリングしてみると、それは映像えいぞうとしては微塵みじん(みじん)も楽しくたのしくないし、観察かんさつ対象たいしょうとしての価値かち無いないだろう。人間にんげん生物なまもの見るみるのと同じおなじように自分じぶん見れみれば、その生きいきさま取るとる足らたらないものに思えおもえ生きるいきることに充実じゅうじつかんられなくなる。作品さくひんなか青年せいねん聞いきいた「トカトントン」も自身じしんうちから発せはっせられたなまへの疑念ぎねんであったのだろう。
 さて、そんなかれに対しにたいし、「ぼう作家さっか」は新約しんやく聖書せいしょのマタイじゅうしょうじゅうはちよりつぎのような言葉ことば引用いんようして返信へんしんする。「殺しころし霊魂れいこんをころしものどもを懼るな、霊魂れいこんとをゲヘナにて滅しめっし得るえるものをおそれよ。」これは本文ほんぶん読むよむ限りかぎり、イエスを畏敬いけい(いけい)せよ、という意味いみ取れるとれるかみ特にとくにユダヤ、キリストおしえにおけるそれは、人類じんるい凡てすべて肯定こうていする存在そんざいであるから、かの青年せいねん救済きゅうさい得るえる存在そんざいだろう。同じおなじように、恋人こいびと家族かぞくといった存在そんざいも、人々ひとびと求めもとめてやまないものである。主観しゅかん抜きぬきにして自己じこなま肯定こうていしてくれる安心あんしんかん浸りひたりたいがために、あいつなぎ(つな)がりや繋がりつながりかみからの無償むしょう博愛はくあい甘えあまえてきたのだ。
 だが、常につねに幸福こうふくであり続けるつづけることが正しいただしいことではない。幸福こうふくとは、幸福こうふく必要ひつようなものしかないこと、言い換えれいいかえれば、事実じじつ黙殺もくさつ取捨しゅしゃによって成立せいりつしているものだからである。例えばたとえば高級こうきゅう食肉しょくにく一つひとつ取っとってもそうだ。先進せんしんこく肥えこえ味覚みかく基づいもとづいあだ(いたずら)に脂質ししつ蓄えたくわえさせられた家畜かちくが、ただ屠殺とさつ(とさつ)されるため産まれうまれている。そうして生産せいさんされた食肉しょくにくじゅうにも廃棄はいき処分しょぶんされる部分ぶぶん数多くかずおおくあり、一方いっぽうでは、エネルギーや蛋白たんぱくしつ(たんぱくしつ)の不足ふそくに喘(あえ)ぐ人々ひとびとさえいる。しかしいざ食卓しょくたくにつけば、わたくしたちはそんな事実じじつ忘れわすれした染めるそめるその美味びみなん笑うわらうのである。宗教しゅうきょうのもたらす安心あんしんでさえ、信仰しんこうごころという自分じぶん認識にんしきが、自分じぶん幸福こうふくをもたらすという奇妙きみょう構造こうぞうじょう成立せいりつしている。幸福こうふくは、都合つごう良いよい事実じじつ以外いがい排除はいじょして初めてはじめて見えるまみえる虚像きょぞうでしかない。だからといって、不幸ふこうとなれば真実しんじつ見えるまみえるというわけではない。不幸ふこう絶望ぜつぼうは、価値かちかん閉塞へいそくによって起こるおこる錯覚さっかく過ぎすぎず、幸福こうふく同じおなじ思い込みおもいこみでしかないのである。
 作品さくひんなかではわるとして描かえがかれる「トカトントン」であるが、実はじつはいち青年せいねん終戦しゅうせんによる絶望ぜつぼうから立ち直らたちなおらせる場面ばめんがある。なんかに熱中ねっちゅうしたり感動かんどうしたりすることをせい精神せいしん活動かつどうとするならば、絶望ぜつぼう精神せいしん活動かつどうである。ならば、「トカトントン」は幸福こうふく不幸ふこうといった価値かち錯誤さくご取り払いとりはらい生きるいきることの価値かちがゼロであると認識にんしきさせるものだと言えるいえる。そして、初めはじめ述べのべた「自分じぶん俯瞰ふかんする感覚かんかく」にも、同じおなじよう性質せいしつがあるとわたくし思うおもうのだ。
 わたくしたち日常にちじょうじゅう入れるはいれる情報じょうほう正しくただしく受け取るうけとるためには、見聞きみききすることに対してにたいしてなん感情かんじょう持っもってはならない。喜びよろこび悲しみかなしみひとそれぞれの幸福こうふく不幸ふこう観点かんてんによって裏付けうらづけられているからだ。ただ、自分じぶん意志いし自分じぶん感情かんじょう制御せいぎょするのは難しいむずかしい。だから、「トカトントン」のように、自分じぶんではないなんかの視点してんから、自分じぶん俯瞰ふかんすればよい。いかなる哀観も感じかんじずに見るみる世界せかいは、どんな事実じじつ殺さころされることなく、あるがままのなり映るうつるのではないだろうか。
 連日れんじつテレビで報道ほうどうされる自殺じさつ企業きぎょう不祥事ふしょうじといったニュースをていると、身勝手みがってひと多いおおい感じるかんじるせんほど挙げあげたトピックをれいにとっても、前者ぜんしゃ絶望ぜつぼうに、後者こうしゃ利潤りじゅんという幸福こうふく基づいもとづいつみ犯しおかしてしまっている。感情かんじょう先行せんこうし、自分じぶん顧みるかえりみることができなかったのだろう。そんなとき、あの「自分じぶん俯瞰ふかんする感覚かんかく」があれば、客観きゃっかんてき自分じぶん見つめみつめ直せなおせたかも知れしれない。普通ふつう、あの感覚かんかくやる気やるきけず(そ)ぐ呪詛じゅそ(じゅそ)のように感じかんじてしまうが、まこと客観きゃっかんせいを以(もっ)て世界せかい眺めるながめる手段しゅだんとして、もっと大切たいせつにすべきものだと思うおもう。(「ヴィヨンのつま『トカトントン』」いこーる太宰だざいおさむちょ 新潮社しんちょうしゃ
伊賀いがばん

2がつ2にち朝刊ちょうかん
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