◇レイチェルと
感じた
自然−−
阿南市・
富岡西高2
年、
野口ま
綾 この
本の
作者、レイチェル・カーソンは、「センス・オブ・ワンダー」
=「
神秘さや
不思議さに
目をみはる
感性」は、それを
自覚して
意識的に、
日常生活の
中で
鈍らせてしまわない
努力が
必要なのだと
言っている。
私がこの
本を
読むきっかけとなった
我が家の
庭は、いつも
台風の
直後のようで「このごろ
留守にしているの。」と
祖母が
訪ねて
来てはあきれている。
隣のおじさんは、「
自然のままでいい。」と
言ってくれているのだが。
庭といっても
本当は狭くて、コンクリートの
敷石も
並べて
埋められていて、
土のある
部分はたった
一坪ほどの、
狭い前庭だ。
もとは
観葉植物だった
鉢植えが
地植えにされたトネリコは、
数年で
二階の
窓の
高さを
越えるほど
大きくなった。
夏には
私の
部屋に
射す強い陽をさえぎり、さわさわと
揺れて、
涼しい陰を
作る。
二本のオリーブの
木も、
太い幹になって、
春には
私の
背丈ほどのところに、
見知らぬ野鳥が
巣を
作って
卵を
産んだ。
裏庭から
植え替えた
白い一重のクチナシや
数種類の
小さなバラはどれも
虫にやられながら、
花を
咲かせている。
放ったらかしにされて、
丸い実の
色が
変化していくトウガラシやムラサキシキブは、
いつの間にか姿を
消してしまった。
落葉の
間をトカゲやカニが
歩いていることもある。
夏に
羽化した
幾つもの
空セミは、そのままトネリコや
雪柳にとまったままだ。
私はこの
庭が
大好きだ。そしてこの
本を
読んで、もしかしたらレイチェルもおいのロジャーを
連れて、いつものように
探検しているうちに
私の
庭にも
来て、この
庭を
気に入ってくれるかもしれないと
思った。
美しく刈り込んで
手入れした
庭を「つまらない、
人工的なもの」と
呼んだレイチェルなら、
私の
庭を
楽しんでくれそうだ。
私は、こんな
玄関先の
愛すべき
一握りの
野生に、
出掛けにも
帰るときにも、やさしく
励まされ癒やされていると
思う。
母は
植物を
買ってくるばかりで、
父と
私が、この
庭の
管理人だ。
一年ほど前、私は友達と「俳句」を作る仲間を組んだ。「俳句」は、季節の言葉を入れることと、五七五の十七音であることがルールのひとつの表現である。四季折々の、自然の美しさや人々の営みを、この短い詩形に完結させることの難しさ、そしてその楽しさに今私たちは夢中だ。まさにそこには彼女の言う自然と向き合う感性が、自分の中からわき立つような感動がある。この本にある何枚もの写真は、オーロラや雪の結晶、親指ほどの大きさしかないモミの木など私が見たことのないものばかりだ。ここでも、レイチェルの「センス・オブ・ワンダー」と私の「センス・オブ・ワンダー」は、その感性を育てた環境、その感性に気付いた環境が、当然違うのだ。
でも、ふと、時々不思議な感覚に襲われる。私たちが自然をめでる気持ちは本物であるかもしれないが、そこに何か的外れな自己満足がありはしないか。例えば、私は携帯電話で俳句を作り、メールで送る。それは、インターネットで兼題の映像を見ながら、エアコンの効いた部屋の中で生み出されたかもしれない。リアルな感動を俳句に込めたつもりでも、その自分自身は、物質至上の現代社会を無批判に生きている。その後ろめたさがまた自分を俳句へと向かわせるという、奇妙な循環を形作っているような気さえするのだ。
すべての大人が、幼い子供の時代を生きてきた。ところが、その時持っていた豊かな感覚を心のどこかにしまいこんで、社会人として与えられた仕事を黙々とこなしてゆく。多くの場合、そこに感性は必要ないだろう。これがレイチェルの言う「やがて大人になるとやってくる、倦怠(けんたい)と幻滅」なのかもしれない。大切なことだとは理解できても、競争や効率を重視する社会では、それは単に息抜きの手段の一つでしかないのかもしれない。
一人で自分の部屋にいても、携帯電話が着信を知らせて光り、私を放っておいてはくれない。いつでも誰かとつながっているような一見安心感ともいえるものに、私と向き合う時間は侵害されてしまう。窓から入ってくる風にたまらなくなって海辺まで自転車で出掛ける感覚は、嵐の夜にレイチェルが浜辺にロジャーを連れ出した感覚と似ているのかもしれない。でも、そんな時にこそ私は、きちんと自分と向き合えている気がするのだ。
地球全体にとって、環境の問題は今や一刻を争う切実なものになっている。彼女の警告に対する人類規模での回答はいまだなされていない。その問いには一体誰が答えるのだろう。二酸化炭素の排出量の割り当てが決められたからこうしようとか、法律で定められたのでわが社はこうしましたとか。もちろんそれも大事なことだろう。でも、きっと答えるべきなのは私たち一人一人で、何よりもそれぞれが自然と向き合うことが大切だと私は信じる。「自然にふれるという終わりのないよろこびは、すべての人が手に入れられるもの」という作者の好奇心や期待に私は応えていきたい。(レイチェル・カーソン著、上遠恵子訳「センス・オブ・ワンダー」佑学社)=おわり
1月28日朝刊