あるべき物がそこにない。シンボルのツタが取り払われた熱闘の舞台は、冷たいコンクリートがむきだしとなり、近づく者を拒むような厳しい表情を見せていた。
阪神間最大のランドマーク「阪神甲子園球場」(兵庫県西宮市)は、昨年から平成22年3月までオフシーズンを利用した改装が進行中。聞こえてくるのは、耳になじんだ歓声やどよめきではなく、工事の轟音(ごうおん)だ。
「ツタがないだけで、こんなに球場のイメージが違うとは…。ツタがあるから甲子園なのですね」。プロ野球・阪神タイガースの社長を10年まで8年間務めた三好一彦さん(77)でさえ“裸の甲子園”の記憶はない。
高校野球の聖地でもある甲子園には、3月の「センバツ」で、いったん熱狂が戻る。しかし、一面にツタが絡まるあの姿がよみがえるのは工事終了からさらに10年後だ。
■先進的ライフスタイルの拠点
よく知られるように甲子園の名は、甲子(きのえね)の年(大正13年)に造られたことに由来する。84年の歳月は幾多の名勝負を生み、同時に球場を中心とした街を育てた。
甲子園一帯は、川の埋め立てで誕生した。武庫川改修に伴い、河口付近の支流、枝川と申川(さるかわ)を廃川にしたことで新たな土地が生まれた。明治38年に神戸〜大阪間を結ぶ鉄道を開業していた阪神電鉄が大正11年、この土地約74ヘクタールを取得。周辺も買い取り、球場やテニスコート、運動場、遊園地などを備えたレジャー拠点建設と、住宅地の販売に乗り出した。
その核となる甲子園球場は着工から4カ月半の突貫工事で完成。元阪神タイガース社長の三好さんは「外壁にツタを絡ませたのは、欧州の古城を参考にしたようだ」と、古い記憶をたぐり寄せる。
この時代、繊維業を中心とした産業変革の影響で、商都、大阪の人口が急増していた。西宮では、甲子園球場の完成と前後して香櫨(こうろ)園、甲陽園、苦楽園などでレジャー施設や温泉、住宅地の開発が進んだ。
「大阪の商工業者や高級サラリーマンらが、温暖で明るい阪神間に居住地を求め、余暇を楽しむようになった。地名に『園』が付く西宮の町々は、その受け皿となった」。白鹿記念酒造博物館研究員で郷土史家の山下忠男さん(67)は、今に続く「園の街」の誕生を、こう説明する。
富裕な「園」の住民は、積極的に余暇を楽しむ「阪神間モダニズム」と呼ばれる先進的なライフスタイルを築いた。甲子園球場からさほど遠くない武庫川河畔に昭和5年、阪神電鉄主導で建設された甲子園ホテル(現・武庫川学院甲子園会館)は、そうした園の住民の社交場。閑静な住宅街の中で際だつモダンな外観が、当時の華やかさを伝える。
レジャー施設と住宅地が共存して発展した甲子園。「どんな街?」と聞くと、三好さんは言った。「球場城下町です」
文・松田則章