本来、読者の能動的な想像力によって完成しうるテキストベースの文芸作品の世界に、メディアアートが結びついたとき、何が起こるのか−。そんな展覧会「文学の触覚」が、東京都写真美術館で開催されている。歌人や作家とメディアアーティストが遭遇する、それは刺激的な現場であるはずだ。ただ、文学作品を“読む”という甘美な行為、その妄想力を妨げるものにならないのだろうか。期待と懸念と、どこか二律背反的な思いを抱きつつ、足を運んでみた。(酒井潤)
展示は3つに大別できる。テキストを見聴きするもの▽テキストの中の事象を表現したもの▽古典への憧憬(どうけい)を表現したもの−だ。
今回の展示を先鋭的に象徴するのは、歌人の穂村弘と石井陽子の作品「火よ、さわれるの」だろう。天井のプロジェクターから短歌のことばが手のひらに投影される。
「えんじぇるの舌なめずりの関数の永遠にして目の前の火よ」
「火」ということばが降ってきたとき、重さも、熱さもあるはずもないのに、手のひらが何かを知覚したように錯覚する。石井も「敏感な手のひらという部分に映像が表示されたらどう感じるのかを味わってほしい」と話す。
近森基と久納鏡子は、作家の松浦寿輝の小品「月の光」に象徴的に登場する生き物を影絵で映し出した。鑑賞者の動きに呼応し、月光を想起させる光のサークルに、音を、声をともなう影が動く。サークルの中で鑑賞者と登場人物が戯れる。挿絵に近い感覚かもしれないが、久納は「挿絵より独立している。文学と同じ方向を走る平行線のイメージ。松浦さんとのキャッチボールを感じてほしい」。
視覚的試みも実践してきた小説家、平野啓一郎と中西泰人の「記憶の告白」は、白いボールを介してテキストを大スクリーンに映し出す。動かしかたによって、テキストのスタイルは変容する。操っているようで、操られる感覚は、読んでいるようで読まされている読書体験に通じるものがある。平野は「言葉の深度が具現化される。紙に印刷された文字にはインクの物理的重さなど何グラムという重さがあるが、それがないことばが出てきている現状に関心がある。こうしたメディアアートは読み手と書き手の関係を変えるものかもしれない」と語る。
このほか、dividualは作品「タイプトレース道 舞城王太郎之巻」で、作家、舞城の推敲(すいこう)をはじめとした創作過程を視覚化した。作家の川上弘美と児玉幸子のコラボレーション「七つの質問」は、暗い空間で鏡に向き合いながら、川上自身が読み上げる質問を耳にする。
今回の展示は、文学作品に“触れる”という、新しい可能性を示した。同館は「競い合うような交差を通して、新たな表現の可能性が創出されないだろうか」という。ただ、文芸作品とメディアアートは、寄り添う程度の節度ある距離を保っているぐらいが、見るものを心地よくさせるのでは−とも思わされた。2月17日まで。